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主に哲学・社会科学の文献紹介ブログ

サルキシャン et al.(2011)「素朴な道徳相対主義」

今回紹介する論文は、『実験哲学 第2巻』から、

Sarkissian, H., Park, J., Tien, D., Wright, J. C., & Knobe, J. (2011). Folk moral relativism.  In J. Knobe, & S. Nichols (Eds.). Experimental Philosophy Volume 2 (pp. 169–192). Oxford: Oxford University Press.

Experimental Philosophy: Volume 2

Experimental Philosophy: Volume 2

 

 

どんな論文?

たとえば、2377という数字が素数であるのかそうではないのかという問いについて、二人の人が言い争っているとき、2377は素数であるという事実によって一方が誤っていて、もう一方が正しいことが分かる。

でも、1月が冬なのか、それとも夏なのかという問いについて争っているときは、答えは住んでいる場所によって決まる。だから、両方の人が正しいということがありえる。

じゃあ、道徳的な問いについてはどうなのだろうか?一方の人だけが正しいのか、それとも両方とも正しいということがあるのか?ということが、この論文では問われている。

 

先行研究と比べてどこがすごいのか?

Nichols(2004)、Goodwin & Darley(2011)などによれば、多くの人は道徳的な問題について一方の人だけが正しいと考えている、つまり道徳客観主義者であることが分かっている。

しかし、著者たちは、人が道徳客観主義者であるという結果は実験の手続きによって引き出されたと主張する。

たとえば、季節について言い争っている二人の人がアメリカに住んでいる場合、1月が冬であるという問いには客観的な答えがあると人は考えるかもしれない。しかし、2人がアメリカとオーストラリアにそれぞれ住んでいる場合は、人はその答えについて相対主義的になるだろう。

別の例として、人はふつう「一日が24時間である」という問いが客観的に真であると考える。しかし、自転が24時間ではない別の惑星について考えたとしたらどうだろうか、答えを相対的なものとして考えるのではないか。

同じことが道徳的な問いについても言えるかもしれない。従来の実験では、人は道徳について客観主義的な直観を持っていることが分かってきた。しかし、このことから人が道徳客観主義者であると結論してしまうのは時期尚早であるかもしれない。

 

どんな実験をしたのか?

実験1では、同じ文化、他の文化、地球外生命体の3つの条件に分かれた。

実験では、次の2つの質問について、

1・ホーレスは、彼の一番下の子供が非常に魅力的でないことに気づき、それゆえ、彼を殺す

2・ディランは高価な新しいナイフを手に入れ、路上の通行人をランダムに刺すことでその切れ味を試す。

同じ文化の条件では、2つの質問について道徳的に不正であると考えるクラスメートと道徳的に許容されると考えるサムという大学生がおり、そのどちらか一方が間違っているもしくは両方とも正しいかについて7件法で尋ねた。

他の文化の条件では、サムの代わりにアマゾンの未開民族のマミロンズ、地球外生命体の条件では、宇宙における正五角形の数を増やそうとしているペンターズについて、クラスメートと彼らのどちらか一方が間違っている、もしくは両方とも正しいかについて尋ねた。

実験結果は?

データは分散分析で分析され、有意な差が見られた。

 

また、他の実験の結果は以下のとおり、

実験2 シンガポールの学生に同じ実験を行った場合も、有意な差が見られた。

実験3 同じ実験参加者に3つの条件を見せた場合も、有意な差が見られた。

実験4 行為者(ホーレス、ディラン)を同じ国である条件と違う国である条件にさらに分けた場合も判断者間(サム、マミロンズ、ペンターズ)では主効果があったが、行為者間では(ホーレス、ディラン)では主効果がなかった。

実験5 実験参加者は、非道徳的なケースでは客観主義者になる傾向があったが、道徳的なケースではより相対主義者となる傾向があった。

実験6 質問の意味の解釈について懸念があったが、実験参加者は真理と正当化について明確に区別していた。

実験結果から考えられることは?

著者たちは次のように結論しております。

今回の研究は、道徳が客観的か相対的かについて直観の複雑な素描を与えている。人々は明らかにあるケースでは客観主義的な直観を持つ。しかし、実験結果は、「人は道徳客観主義を支持している」のような単純な主張では人の道徳に関する見解を捉えることはできないことを示唆している。反対に、根本的に異なる文化や生活様式の個人を考えさせられたとき、人々の直観は著しく相対主義的になる。  

 

ちなみに、最近、私は倫理学の自然化に興味があるのですが、この論文の第1著者サルキシャンは「倫理学を自然化する」という論文をフラナガンとウォングと共に書いております。

 

フラナガンとウォングの著作

The Geography of Morals: Varieties of Moral Possibility

The Geography of Morals: Varieties of Moral Possibility

 
Natural Moralities: A Defense of Pluralistic  Relativism (English Edition)

Natural Moralities: A Defense of Pluralistic Relativism (English Edition)

 

 

道徳相対主義は道徳的行動を危うくするという研究(Rai, T. S., & Holyoak, K. J. 2013)

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今回紹介する論文では、人が道徳絶対主義/道徳相対主義であることは行動や意図にどのような効果を及ぼすのかについて調べられています。

 

Rai, T. S., & Holyoak, K. J. (2013). Exposure to moral relativism compromises moral behavior. Journal of Experimental Social Psychology, 49(6), 995–1001.

 

以前、道徳絶対主義的であると向社会的に行動する傾向があるという研究を紹介したのですが、今回の論文では、道徳相対主義的であるほど不道徳な行動をしてしまうのか?ということが問題となっています。

 

というわけで著者達は次の仮説を立てました。

道徳的な信念が主観的な好みではなく、普遍的に知覚されることや世界の状態に関する事実に由来することから来る動機付けの力に由来するとしたら、道徳相対主義に影響されることは人々を不道徳な行動に従事することへと至らせる。一方で、道徳絶対主義に影響されることは人々を不道徳な行為へと従事することを抑制する。この観点から、道徳的信念に絶対主義的になることはそれらに沿って行為する動機づけを増やす。一方で、道徳相対主義を含む固有の主観的な道徳はこの動機づけを減らし、そして不道徳な行動に従事する可能性を増やす。

 

実験1

120人が実験に参加した。

 

道徳相対主義の実験群には、「私達の持つ道徳的価値は主観的な意見であり、他の集団の人々に私達の道徳的価値を課すことはできない」と伝えた。

 

道徳絶対主義の実験群には、「いくらかの道徳的価値は客観的に正しいか不正であり、私達の道徳的価値を他の集団の人々に課すことが義務である」と伝えた。

 

その後、道徳絶対主義/道徳相対主義がいかなる影響を及ぼすかについて調べるために、実験参加者に賞金のプレゼントの機会を与えた。

賞金のチケットの数は2つの10面サイコロに基づいており、サイコロの目をかけ合わせた数が大きいほど引換券をもらうことができる、また、かけ合わせた数を記録するようにと伝えた。

ここでは、かけ合わせた数が実際の数よりも大きな数であると実験参加者が嘘を付くかどうかが問題となっています。

 

しかし、この方法だと実験参加者が実際にサイコロの数について嘘をついているのかどうかが分かりません。そのため、他の実験群よりも受け取っているチケットの数が多いかどうかで嘘をついているかどうかを調べています。

 

実験の結果、統制群と道徳客観主義の実験群よりも、道徳相対主義の実験群のほうが高いサイコロの目を記録していた。

 

実験2

実験1の結果に対して、著者たちの仮説とは別に2つの仮説が考えられる。

 

許容性の仮説(permissibility hypothesis) 

道徳相対主義的であることはより行動が許容されることを示しているという仮説。

 

同意性の仮説(agreeableness hypothesis)

相対主義の条件に読ませた記述は実験参加者が道徳的に不同意である立場を擁護しており、絶対主義者の条件に読ませた記述は既に同意している立場を擁護しているという仮説。

 

そこで、実験2では実験群を道徳絶対主義の許容バージョンと非許容バージョン、道徳相対主義の不同意バージョンと同意バージョンに分けた。

 

著者たちの仮説が正しければ、両方のバージョンの道徳相対主義の実験群のほうが道徳絶対主義よりも不道徳な行動に従事するだろう。

許容性の仮説が正しければ、道徳絶対主義の許容バージョンのほうが、道徳絶対主義の非許容バージョンよりも不道徳な行動に従事するだろう。

同意性の仮説が正しければ、相対主義の非同意バージョンのほうが、相対主義の同意バージョンよりも不道徳な行為に従事するだろう。

 

インターネットを通じて、320人が実験に参加した。

実験参加者にはそれぞれの道徳の定義を提示した後、次のことを尋ねた。

 

食料雑貨店で、いつも買う商品を見つけた。しかしその商品の値段が明らかに間違っていた。4ドルの代わりに、4セントとして記載されていた。

 

そして、誤った値段が記載された商品を4セントで買いたいかどうかの程度を7件法で尋ねた。

 

結果として、道徳絶対主義の実験群は道徳相対主義の実験群、統制群と比べて顕著に誤った記載の商品を買うことを支持しなかった。

そして、道徳絶対主義における許容バージョンと非許容バージョンの間では顕著な違いがなかったため、許容性の仮説は支持されなかった。

同様に、相対主義における同意バージョンと不同意バージョンの間にも顕著な違いがなかったため、同意性の仮説もまた支持されなかった。

 

1つ目の実験の結果を説明する仮説をさらに2つ考えて、2つ目の実験でそれぞれの仮説を検証するというの鮮やかでした。

 

メタ倫理学―伝統的なアプローチと経験的なアプローチ(Plakias. A, 2016)

今日紹介する論文は『ブラックウェル・コンパニオン 実験哲学』から、

A Companion to Experimental Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

A Companion to Experimental Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

 

本記事では、この論文を大雑把にまとめてみたい。

 

イントロダクション

いくらかの哲学者たちは哲学的な問いへの経験的な方法を適用することに批判的である。

このことから、経験的な方法と伝統的な方法は対立していると結論したい気になるかもしれない。

しかし、少なくともメタ倫理学においては経験的なアプローチと伝統的なアプローチは連続したものである。

この論文ではいかにして経験的なアプローチがメタ倫理学における論争に影響を与えるのかについて議論される。

 

道徳実在論 VS 非実在

道徳実在論者の主張は次のものである。

  1. 道徳言語は記述的である
  2. そして、いくつかの主張は真である。

対して、錯誤理論は1.を肯定して、2.を否定し、非認知主義者は両方を否定する。

 

錯誤理論には2つの主張が含まれている。

  1. 道徳的談話(moral discourse)は客観的な道徳的事実の存在にコミットしている。
  2. そして、客観的な道徳的事実等存在しない。

1つ目の主張は私達の普段の道徳的談話に関することである。もし私達の普段の道徳的談話が客観的な道徳的事実を仮定していないとしたら、錯誤理論は主張を進めることができない。

また、錯誤理論の1つ目の主張は道徳実在論も共有しているものである。

経験的なエビデンスは道徳実在論と錯誤理論を支持しているようには見えない。

たとえば、GoodwinとDarleyは実験参加者が倫理的な言明を事実についてのものであるか、意見もしくは態度についてのものであるかを尋ねたところ、顕著な数の実験参加者が後者であると答えた。

また、Sarkissianによれば人々が根本的に異なる文化や生き方を考えさせられたとき、人々の直観は相対主義的なものとなった。

認知主義 VS 非認知主義

認知主義者は道徳的主張が記述的であると主張する。対して、非認知主義者は道徳的主張は記述的ではなく、何かを表出するものであるという。

しかしながら、道徳言語は疑いようなく記述的に機能しているよう見える。そうだとすれば、非認知主義者は私達が道徳言語の本性について勘違いをしていると主張している意味で、非認知主義は改訂的なテーゼであると言える。

この不可解さは非認知主義者の見解を経験的に擁護することを難しくするように見える。

また、道徳判断をするときに脳における感情の活動が伴うというエビデンスは認知主義を論駁しない。なぜなら認知主義は感情の役割を否定する必要はないからである。

非認知主義者が説明できると主張している道徳的談話は、道徳的な不一致である。

非認知主義者によれば、事実の問題とは異なり道徳的不一致は解決することができなく、また異なる態度を含んでいるという。

もし道徳的な不一致が事実に関する不一致であるとしたら、それは情報が与えられることによって解決されるだろう。

しかし非認知主義者はそうなる傾向にはないと述べる。

この問題への2つのアプローチがある。

1つ目のアプローチは道徳的な不一致の現実の実例を調べ、そしてさらなる情報もしくは認識の改善によってそれが解決されるを評価することだ。

しかし、DorisとPlakias (2008)によれば、事実的な問題とは違い、道徳的な不一致は認識の改善によっても消え去らなかった。

2つ目のアプローチはいかにして、普段の道徳的対話が道徳的不一致の表出を取り扱うのかを見ることである。

Sarkissian et alによれば、多くの実験参加者が非認知主義的な道徳的不一致の解釈を支持する傾向にあったという。

 

道徳的な動機づけ

道徳判断は典型的には動機づけと結びついている。

しかし、道徳判断と動機付けのつながりの正確な本性は論争的である。

内在主義者によれば、真剣な道徳判断は必然的に私達を行為へと動機づける。対して、外材主義者は必然的に行為へと動機づけるわけではないと主張する。

内在主義が正しいとしたら、なぜ事実的な信念とは違い、道徳的な信念は必然的に動機づけるのかについて実在論者は説明しなければならない。

また、マッキーは実在論者が非常に奇妙な種類の性質を仮定しているとして批判している。

スミスは道徳判断を私達が完全に合理的であるなら望むであろうことの判断として扱うことを提案している

この見解では、内在主義の主張する動機の関係を持ちながら、道徳判断は信念である。

外在主義者はアモラリストの可能性を指摘する。

モラリストとは、

道徳的熟慮の存在を認めた人が、依然として心を動かされない。(Brink 1986)

というものである。

モラリストは、単に哲学者の作り話ではない。

1つ目にサイコパスの研究がある。

サイコパスは道徳的熟慮の経験を本当に認識するのか、それとも彼等は単に他の人々の主張をマネするだけなのだろうか。

道徳判断に関するエヴィデンスの一つとして、道徳/慣習の区別として知られるものがある。

比較的幼い子どもは異なる違反の種類を区別する。

しかし、Blair (1995) によればサイコパスは道徳/慣習の区別をつけることに失敗した。

こうした道徳/慣習の区別をつけることの失敗はサイコパスが道徳判断をしていないことを示しているのか?

とはいえ、Blair (1995)の実験は参加者が10人しかおらず、また違反のタイプが子供を撃つことか子供の髪を引っ張ることだった。

また最近の研究ではBlairとは異なり、道徳/慣習の区別をつけることに失敗しなかったものもあった。

2つ目の研究は、腹内側前頭前皮質(VMPc)の損傷に関するものである。その部位は意思決定、学習、感情と関係している。

Adina Roskies (2003, 2006)によれば、道徳判断の能力を持っているにもかかわらず、VMPcを損傷した場合、道徳や社会規範に沿って行為することが困難になるという。

また、サイコパスのケースとは異なり、VMPcの患者は典型的に道徳/慣習の区別をつけることができている。このことは動機づけなしに道徳判断をするケースを提示している。

また、Nichols (2002)は実験参加者にサイコパスの犯罪者のケースを読ませた。ジョンは他の人を傷つけることに何の感情的反応も持たず、また彼は他者を傷つけることは不正であると言うが、自分が不正なことをしているかどうかには関心がない。

実験参加者に、ジョンは他者を傷つけることが不正であることを理解しているか尋ねたところ、85%の参加者が理解していると答えた。

このことから、Nicholsは道徳的動機づけは私達の一般的な道徳理解の概念の必然的な部分ではないと結論した。

しかしBjornsson et alがNicholsと似た実験をしたところ、異なる結果が出た。彼等の発見によれば、人々は内在主義者の直観を持っていたという。

 

 

漠然とメタ倫理学の論争って経験科学の知見を立脚点しないといけないのではと思っていたので興味深い論文でした。しかし、哲学の論文をまとめるのは大変ですな。

道徳実在論者ほどより寄付をするという研究(Young. Liane., & A.J. Durwin. 2013.)

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今までの研究では、道徳が客観的なものであると考える人ほど、異なる道徳的信念を持つ人に不快感を感じるとか*1、道徳実在論は暴力的行為を動機づけるという研究*2 がありました。

 

そこで今回紹介するのは、道徳が存在すると考える人ほど、寄付する傾向が高くなるという研究*3

つまり、道徳実在論の良い点について焦点を当てた研究です。

 

実験は道徳実在論非実在論、統制群のグループにランダムに分け、それぞれのグループでどれだけ慈善団体に寄付する傾向が違うのかが探られています。

 

実験内容は以下のとおり

  • 最初の実験は138人の通行人を慈善団体の職員に扮した研究者が呼び止めて、次の質問をした。
  • 道徳実在論のグループに割り当てられた人に「何らかのことが道徳的に正しいか不正か、善いか悪いかであることに同意するか、また、世界のどこにおいてもそれが成り立つかどうかに同意するか」と尋ね、
  • 非実在論者のグループの人に割り当てられた人は「私達の道徳と価値は文化や教育によって形作られたことに同意するか、また、道徳的真理を発見することはそれぞれの人々に委ねられているのか」と尋ね、
  • 統制群の人には何も尋ねなかった。
  • そして、慈善団体に寄付するかを尋ねた。

 

要するに、実験参加者に道徳実在論反実在論に関する内容の刺激を与えることによって、寄付するどうかという判断にどれだけ影響を与えるのかについて調べたわけですな。

 

結果として、道徳実在論のグループは非実在論、統制群と比べて2倍寄付する傾向があったそうな。

 

この実験の後、著者たちはインターネットでも同様の調査が行ったのですが、それもこの実験の結果を裏付けたようです。

 

著者たちはこの結果を次のように説明しております。

  1. 道徳実在論は自分自身の道徳的地位を際立たせる可能性がある(たとえば、道徳実在論者であるほど、罰の可能性に敏感になるかもしれない)。
  2.  道徳実在論に関する刺激を与えることは共感的な、もしくは集団主義的な刺激を与える可能性がある。

 

また、著者達は今後の研究について次のように述べております。

将来の研究のための重要なトピックは道徳実在論と道徳集団主義の関係、すなわち道徳実在論は人を集団への貢献へと動機づけるかどうかである。将来の研究では、共通の道徳に関する刺激を与えることが、人が共有する他の特徴と比べて、独自の効果もしくは独自の強固な効果を産出するかどうかを探求するかもしれない。

 

最後に、この論文を読んでいて思ったのは道徳虚構主義とか、道徳撤廃主義の議論です。

こうした経験的な研究によって道徳が存在すると考えられることのメリット・デメリットが明らかになることによって、いかなる立場を取るべきかが決まってきそうだなと思いました。

*1:Goodwin, G. P., & Darley, J. (2012). Why are some moral beliefs seen as more objective than others? Journal of Experimental Social Psychology, 48, 250–256.

*2:Ginges, J., Atran, S., Medin, D., & Shikaki, K. (2007). Sacred bounds on rational resolu- tion of violent political conflict. Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America, 104(18), 7357–7360.

*3:Young, Liane, and A.J. Durwin. 2013. Moral realism as moral motivation: The impact of meta-ethics on everyday decision-making. Journal of Experimental Social Psychology 49 (2): 302–306.

なぜある道徳的信念は他のものより客観的であると考えられているのか?(Goodwin, G.P., and J.M. Darley. 2012)

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今回の紹介する論文は前回の記事の続編。

Goodwin, G. P., & Darley, J. M. (2012). Why are some moral beliefs perceived to be more objective than others? Journal of Experimental Social Psychology 48,, 250–256. 

 

前回、紹介した論文の発見の1つは、

1つ目の主要な発見は、様々な倫理的な信念のメタ倫理学的な立場において、個人は特に一貫しているわけではなく、代わりに、問題となっている信念の内容に非常に影響されるということである。

というものだった。

 そのため、今回紹介する論文では次のことが問われている。

 

1・道徳的信念の相違は知覚された道徳の客観性を予測するのか?

社会心理学の研究では、ネガティブな目的はポジティブな目的と比べてより重く見られ、またより注目を集めるという研究がある。(Baumeister, Bratslavsky, Finkenauer, & Vohs, 2001; Rozin & Royzman, 2001)。

そのため、著者達の第一の仮説は、ネガティブな不道徳的な行為に関する信念はポジティブな道徳的な行為に関する信念よりもより客観的に知覚されるというものである。

 

さらに2つの問いがこの論文で問われている。

2・知覚された道徳的な合意は知覚された道徳の客観性を予測するのか?

第二の仮説は、道徳的な信念の客観性における判断において、他の人々がその道徳的な信念を持つ傾向にあると考えるかどうかに、人は影響を受けるというものである。

 

3・客観的な道徳的な信念は、道徳的な不一致への閉鎖的な応答と関連があるのか?

ある哲学者によれば、道徳実在論者は道徳的な不一致により開放的であるという。なぜならもし道徳が存在するとしたら、解決すべき問題についての事実が存在し、またそうした情報には価値があるからだ(Snare, 1992)。しかし、著者達はその逆のほうが実際には真実でありそうだと考えた。

そのため、第3の仮説は、道徳的な信念を客観的であると知覚することは、道徳的な不一致に直面した時に、より閉鎖的な応答をすることと関連しているというものである。

実験1

実験には59人の大学生が参加した。

実験の第一段階では、

①最初に18個のシナリオについて同意か不同意かを6件法で尋ねた。

シナリオは以下の種類のものがある。

・道徳(ネガティブ) 

ipodをほしい男が財布を盗む話

・道徳(ポジティブ)

例 自分のお金を慈善団体に寄付する話

・道徳(人生の問題)

例 危篤の父の安楽死を手伝う話

・事実

ホモ・サピエンスは原始的な霊長類から進化したという話

・社会的慣習

例 ビジネスの会食で、ステーキを素手で食べる男の話

・好み

例 チョコレートアイスクリームはズッキーニよりもおいしいという話

 

②続いて、それぞれの言明を真にする正しい答えが存在すると思うかを6件法で尋ねた。(これは客観性を測定するための質問)

 

③そして、アメリカ国民の何%がそれぞれの言明に同意すると思うかを尋ねた。(これは第2の仮説のための質問)

 

実験の第二段階では、

④他の人々が実験参加者の意見に反対していたことを伝えた。そして、そのことについて実験参加者にどちらも間違っていないか、それとも他の人々が間違っているのかについて程度を6件法で尋ねた。(これも客観性を測定するための質問)

 

⑤最後に、実験参加者に同意しないルームメイトを持つことがどれだけ不快であるかを6件法で尋ねた。(これは第3の仮説のための質問)

 

実験の結果として、

・ネガティブな不道徳的な行為はポジティブな道徳的行為よりもより客観的に知覚されていた。

・知覚された道徳の客観性と知覚された合意の相関は非常に高かった。また言明に同意する程度と知覚された合意の相関も同様に高かった。

・道徳的なシナリオの得点に限って言えば、言明を客観的であると考えることと同意できないルームメイトを持つことの不快感には相関があった。また言明に同意する程度とルームメイトへの不快感の相関はいくぶん弱かった。

 

実験2

実験2の目的は合意を知覚することが客観性の知覚に因果的な影響を与えるかどうかを調べることである。

そのため、同じ大学の生徒がどれだけその言明を不道徳であると考えたかについて高いパーセンテージが記載された紙と低いパーセンテージが記載された紙を配ることによって、実験参加者が考える言明についての合意の程度を操作した。

 

実験結果から、知覚された合意は客観性の知覚に影響を与えることが分かった。

 

結論

以上のことから著者達は、

今回の研究では、人は異なる道徳的な信念を異なって客観的であると見なしていたことが示された。これらの違いは道徳的な信念のポジ-ネガ(valence)とどのようにそのような信念が社会的に表象されているのかの両方から生じていた。そして、それらは道徳的不一致への閉鎖的な応答と関連していた。

 と結論している。

 

道徳を客観的であると考えるほど、道徳的な不一致を不快に感じるというのは自分の実体験に当てはまるところがあるので、なるほどと思いました(一応、私は道徳実在論を支持しています)。

この論文では道徳実在論であることの負の側面が明らかになってしまったわけですが、私としては道徳を客観的に知覚することにどのような正の側面があるのかについて気になってくる次第です。

 

 

人はどれくらい道徳が客観的であると信じているのか?(Goodwin, G.P., and J.M. Darley. 2008)

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道徳が存在するのかしないのかというのはメタ倫理学の問題だけど、道徳が存在するのかしないのかを人がどのように考えているのかについては心理学や実験哲学の問題。今回、紹介する論文は以下のもの、

 
Goodwin, G.P., and J.M. Darley. 2008. The psychology of meta-ethics: exploring objectivism. Cognition 106: 1339–1366.
 
この論文では次のことが問題となっている。
1.人は道徳に関する客観主義者もしくは主観主義者のどちらになる傾向があるのか。
2.科学的事実や嗜好のような種類の言明と並んで、人は倫理的言明の客観性をどのように考えるのか。
3.いかなる要因が個人における道徳の客観性の程度の違いを予測するのか。
 
これらの問題に答えるために、この論文では、実験参加者が同意した倫理的な問題に他の人が同意していないという状況において、実験参加者はどのように応答するのかを調べるという方法が採用されている。
 
なぜこのような方法が取られているかというと、
1つ目に、単純に人々に客観主義者か主観主義者かを聞くのは不正確である。
2つ目に、客観主義と主観主義を区別する単純な定式として次のものがある。
ある人が特定の倫理的な主張を真であるとし、倫理的な不一致の状況を少なくとも一方が間違っていることを必然的に伴うことであると考えるのだとしたら、彼は客観主義者である。対して、彼が代わりにどちらも間違っていないとするなら、彼は主観主義者である。(Smith,1994; Snare, 1992).
という理由がある。
 

実験1

1つ目の実験はプリンストン大学の50人の学生に行われた。
①最初に26の言明に対して同意か不同意かを6件法で尋ねた。
また、26の言明は4つのカテゴリーに分かれている。
 
・事実的な言明
例 ボストンはロサンゼルスよりも北にあるのか?
・倫理的な言明
例 寄付することは道徳的に善い行為か?
・社会的な慣習の言明
例 パジャマを着て会議に出向くことは間違った行動か?
・好みの言明 
例 『ダヴィンチコード』の著者よりもシェークスピアのほうが良い作家か?
 
②次にそれらの言明が真であるか、偽であるか、それとも単に意見であるかを尋ねた。
 
③そして、実験参加者に他の人が実験参加者が同意した言明に対して同意していないということを伝え、それをどのように解釈するかについて次の4つの選択肢から尋ねた。
 
1他の人は完全に間違っていた
2私と他の人の両方が間違っていないということが可能である
3あなたが間違っているということが可能で、他の人が正しいということも可能である
4その他
 
 Goodwin達は、②と③の質問を組み合わせて、客観性の程度を測定した。
 
ある信念は真か偽で
ある信念は単に意見で
対立する人は完全に間違っている
完全に客観的
第二の中間的に客観的
一方が間違っている必要はない
第一の中間的に客観的
最も客観的でない
 
④最後に、実験参加者に彼等の倫理的な立場を基礎づけるものについて尋ねた。
1.神の命令であるため
2.善い人がそうした信念を持っているため
3.そうした信念を持っていないと社会は存続しないため
4.信念が真であることが自明であるため
 
実験1の結果から分かったのは次のことである。
・倫理的言明の真理に関するメタ倫理学的判断は言明の内容に非常に影響を受けていた。
・言明のカテゴリーにおける客観性の程度は、事実的言明>倫理的言明>社会的な慣習の言明>好みの言明の順でより客観的であると考えられていた。
・④の1〜3に自分の立場を基礎づけた人々はそうでない人々よりもより客観的であったが、4(自明であるため)においてはそうではなかった。また基礎づけるものが多ければ多いほどより客観的な傾向があった。 

実験2

2つ目の実験は71人のプリンストン大学の学生が参加した。実験内容は実験1とほとんど同じだが、②言明が真であるか、偽であるか、単に意見であるかを尋ねる代わりに、「この言明を真にするかどうかについての正しい答えが存在するのか」について「はい」と「いいえ」の二件法で尋ねた。
質問を変更した理由は実験1の質問が認識論的な区別ではなく、言明の確からしさの程度を表しているという反論があったからである。
 
実験結果は実験1とほぼ同じ結果であった。
 

実験3

3つ目の実験は247人のプリンストン大学の学生が参加した。
この実験は26の言明ではなく、3つのシナリオ(寄付、アリバイ、中絶)について六件法で質問したことと宗教的な信念(神は存在するのか)と政治的な立場(リベラルか保守か)を追加で尋ねた点において異なっている。
 
実験結果は、宗教的な信念の強さは倫理的な客観性を予測したが、政治的な立場は倫理的な客観性と相関しなかった。
 

結論

 以上の3つの実験から、Goodwin達が言うには、
 
1つ目の主要な発見は、様々な倫理的な信念のメタ倫理学的な立場において、個人は特に一貫しているわけではなく、代わりに、問題となっている信念の内容に非常に影響されるということである。
 
2つ目の主要な発見は、倫理的な信念はほとんど科学的な、事実的な信念と同じくらい客観的に見なされ、そして明らかに社会的な慣習や好みよりも客観的に見なされたというものである。
 
3つ目の主要な発見は、個人が倫理的な体系を基礎づける仕方は彼等が倫理的な信念に関してどれだけ客観的であるかを予測したというものである。

とのこと。道徳がわりと客観的なものであると考えられているのは、意外な結果。

結構面白い研究だったので、他のメタ倫理学の心理学に関する研究も気になってきます。

 

ちなみに、この論文はKnobeとNicholsによる実験哲学の論文集にも収められています。

Experimental Philosophy: Volume 2

Experimental Philosophy: Volume 2