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メタ倫理学―伝統的なアプローチと経験的なアプローチ(Plakias. A, 2016)

今日紹介する論文は『ブラックウェル・コンパニオン 実験哲学』から、

A Companion to Experimental Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

A Companion to Experimental Philosophy (Blackwell Companions to Philosophy)

 

本記事では、この論文を大雑把にまとめてみたい。

 

イントロダクション

いくらかの哲学者たちは哲学的な問いへの経験的な方法を適用することに批判的である。

このことから、経験的な方法と伝統的な方法は対立していると結論したい気になるかもしれない。

しかし、少なくともメタ倫理学においては経験的なアプローチと伝統的なアプローチは連続したものである。

この論文ではいかにして経験的なアプローチがメタ倫理学における論争に影響を与えるのかについて議論される。

 

道徳実在論 VS 非実在

道徳実在論者の主張は次のものである。

  1. 道徳言語は記述的である
  2. そして、いくつかの主張は真である。

対して、錯誤理論は1.を肯定して、2.を否定し、非認知主義者は両方を否定する。

 

錯誤理論には2つの主張が含まれている。

  1. 道徳的談話(moral discourse)は客観的な道徳的事実の存在にコミットしている。
  2. そして、客観的な道徳的事実等存在しない。

1つ目の主張は私達の普段の道徳的談話に関することである。もし私達の普段の道徳的談話が客観的な道徳的事実を仮定していないとしたら、錯誤理論は主張を進めることができない。

また、錯誤理論の1つ目の主張は道徳実在論も共有しているものである。

経験的なエビデンスは道徳実在論と錯誤理論を支持しているようには見えない。

たとえば、GoodwinとDarleyは実験参加者が倫理的な言明を事実についてのものであるか、意見もしくは態度についてのものであるかを尋ねたところ、顕著な数の実験参加者が後者であると答えた。

また、Sarkissianによれば人々が根本的に異なる文化や生き方を考えさせられたとき、人々の直観は相対主義的なものとなった。

認知主義 VS 非認知主義

認知主義者は道徳的主張が記述的であると主張する。対して、非認知主義者は道徳的主張は記述的ではなく、何かを表出するものであるという。

しかしながら、道徳言語は疑いようなく記述的に機能しているよう見える。そうだとすれば、非認知主義者は私達が道徳言語の本性について勘違いをしていると主張している意味で、非認知主義は改訂的なテーゼであると言える。

この不可解さは非認知主義者の見解を経験的に擁護することを難しくするように見える。

また、道徳判断をするときに脳における感情の活動が伴うというエビデンスは認知主義を論駁しない。なぜなら認知主義は感情の役割を否定する必要はないからである。

非認知主義者が説明できると主張している道徳的談話は、道徳的な不一致である。

非認知主義者によれば、事実の問題とは異なり道徳的不一致は解決することができなく、また異なる態度を含んでいるという。

もし道徳的な不一致が事実に関する不一致であるとしたら、それは情報が与えられることによって解決されるだろう。

しかし非認知主義者はそうなる傾向にはないと述べる。

この問題への2つのアプローチがある。

1つ目のアプローチは道徳的な不一致の現実の実例を調べ、そしてさらなる情報もしくは認識の改善によってそれが解決されるを評価することだ。

しかし、DorisとPlakias (2008)によれば、事実的な問題とは違い、道徳的な不一致は認識の改善によっても消え去らなかった。

2つ目のアプローチはいかにして、普段の道徳的対話が道徳的不一致の表出を取り扱うのかを見ることである。

Sarkissian et alによれば、多くの実験参加者が非認知主義的な道徳的不一致の解釈を支持する傾向にあったという。

 

道徳的な動機づけ

道徳判断は典型的には動機づけと結びついている。

しかし、道徳判断と動機付けのつながりの正確な本性は論争的である。

内在主義者によれば、真剣な道徳判断は必然的に私達を行為へと動機づける。対して、外材主義者は必然的に行為へと動機づけるわけではないと主張する。

内在主義が正しいとしたら、なぜ事実的な信念とは違い、道徳的な信念は必然的に動機づけるのかについて実在論者は説明しなければならない。

また、マッキーは実在論者が非常に奇妙な種類の性質を仮定しているとして批判している。

スミスは道徳判断を私達が完全に合理的であるなら望むであろうことの判断として扱うことを提案している

この見解では、内在主義の主張する動機の関係を持ちながら、道徳判断は信念である。

外在主義者はアモラリストの可能性を指摘する。

モラリストとは、

道徳的熟慮の存在を認めた人が、依然として心を動かされない。(Brink 1986)

というものである。

モラリストは、単に哲学者の作り話ではない。

1つ目にサイコパスの研究がある。

サイコパスは道徳的熟慮の経験を本当に認識するのか、それとも彼等は単に他の人々の主張をマネするだけなのだろうか。

道徳判断に関するエヴィデンスの一つとして、道徳/慣習の区別として知られるものがある。

比較的幼い子どもは異なる違反の種類を区別する。

しかし、Blair (1995) によればサイコパスは道徳/慣習の区別をつけることに失敗した。

こうした道徳/慣習の区別をつけることの失敗はサイコパスが道徳判断をしていないことを示しているのか?

とはいえ、Blair (1995)の実験は参加者が10人しかおらず、また違反のタイプが子供を撃つことか子供の髪を引っ張ることだった。

また最近の研究ではBlairとは異なり、道徳/慣習の区別をつけることに失敗しなかったものもあった。

2つ目の研究は、腹内側前頭前皮質(VMPc)の損傷に関するものである。その部位は意思決定、学習、感情と関係している。

Adina Roskies (2003, 2006)によれば、道徳判断の能力を持っているにもかかわらず、VMPcを損傷した場合、道徳や社会規範に沿って行為することが困難になるという。

また、サイコパスのケースとは異なり、VMPcの患者は典型的に道徳/慣習の区別をつけることができている。このことは動機づけなしに道徳判断をするケースを提示している。

また、Nichols (2002)は実験参加者にサイコパスの犯罪者のケースを読ませた。ジョンは他の人を傷つけることに何の感情的反応も持たず、また彼は他者を傷つけることは不正であると言うが、自分が不正なことをしているかどうかには関心がない。

実験参加者に、ジョンは他者を傷つけることが不正であることを理解しているか尋ねたところ、85%の参加者が理解していると答えた。

このことから、Nicholsは道徳的動機づけは私達の一般的な道徳理解の概念の必然的な部分ではないと結論した。

しかしBjornsson et alがNicholsと似た実験をしたところ、異なる結果が出た。彼等の発見によれば、人々は内在主義者の直観を持っていたという。

 

 

漠然とメタ倫理学の論争って経験科学の知見を立脚点しないといけないのではと思っていたので興味深い論文でした。しかし、哲学の論文をまとめるのは大変ですな。